あの日から一年

2020/01/22
天気:曇り
2002年11月日にち不明 我が家に来る前。 
クーが昨年1月22日、天国へ旅立ってもう1年も経つですね。あんなに元気だったクーちゃんが亡くなるなんて思いもしませんでした。確かに晩年は歩けなくなり、おむつを着けるようになりましたが。

命日にすることと言えば、普通は墓参りをして、故人(犬)を偲ぶことと思います。ただ私たちはヨーゼフもそうでしたが、お墓は用意しませんでした。
それと言うのもおかーさんが側に置いておきたい思いから。それとお墓に安置したら毎日会えないし、私たちが亡くなった後がどうなるか分からない。そんな理由もありました。
いつもよりちょっとだけ豪華な花、そしてクーの大好物で誕生日には定番だったステーキを(当然ヨーゼフも)あげることぐらいしか思い浮かびません。

その他にはメイを連れて「昭和記念公園」に行ったことです。
昭和記念公園は曇り空とここ何日かで一番寒い日だったこともあるでしょう、来園者はかなり少なかったです。ただ、私自身は体の調子が良かったのか、歩いてもそれほど疲れませんでした。クーが久し振りだねと後押ししてくれたのでしょう。
2002年12月29日 おかーさんの袖に入る。

クーが我が家に来た時のことはとても残念ですが、私ははっきり記憶していないのです。2002年12月29日、1年後に結婚した娘と将来の旦那さんがヨーゼフ一人では私たち夫婦の間で取り合いになるといけない。と思い、もう一人連れて来たとの優しい思いでした。

10ヵ月前、ヨーゼフを迎え入れた時と同様に本当に小さい、可愛い仔犬だった。まだ生まれて1ヵ月余りしか経っていないのですから。ヨーゼフはペットショップで一番元気な仔を。クーは知り合いのブリーダーさんから、これも元気な仔を連れて来たのです。我が家に来た時をあまり覚えていないのはクーに申し訳ない気持ちでいっぱいです。

クーが来て、一番興味を示したのはヨーゼフでした。クーは来た時、ヨーゼフが先輩犬として小さいクーをいじめてはいけないと思いケージに入れました。そのクーをヨーゼフはじっと「キミは誰?」と不思議な気持ちで見ていたものです。
2002年12月29日  ヨーゼフと対面

でも心配は杞憂に終わりました。いじめるどころかヨーゼフはクーを直ぐ受け入れてくれました。クーも犬種は違うけど、ヨゼ兄ちゃんにしっかり付いて行きました。

家の中は一気に賑やかになりました。毎日が楽しい日々になりました。
クーちゃんは本音は優しい子で臆病な子でした。でも見かけはヤンチャで向こうっ気の強い性格でした。こんなエピソードがあります。出掛けた時のこと、東北道の佐野SAで休んだ時、SA内を歩いていたら離れたところに猫がいたのですが、目ざとく見つけたクーは私の持っていたリードを振りほどき猫の所にかけて行きました。すると猫は得意の猫パンチを繰り出しました。頭辺りに猫パンチを受けたクーはキャンキャンと鳴きながら私の所へ逃げ帰って来ました。眼にパンチを食らわないで良かったです。

クーは色々な特技やクセを持っていました。雨戸の開け閉めではどこにいても必ず跳んで来てワンワン吠えます。終わるとスッといなくなります。掃除機を使うと吸い込み口にやはり吠えました。音が苦手なんですね。ヨーゼフほどではなかったけどカミナリは怖かったようです。
一番の得意技はでピストルの真似をして「バァーン」と言うとバタンと倒れることです。ただ倒れるだけではなく、グルグル回ってから倒れるんです。試しにやったらすぐ覚えたんです。天才でした。
2002年12月29日  おかーさんに抱かれて
そんな毎日を送っていた我が家に大事件が起きました。2004年か2005年の正月、クーに私が指を咬まれたのです。それも両手の人差し指を。原因は私がクーを怖がらせてしまったからです。私が酔っ払って「私がクーより上なんだよ」と主従関係を教えようとしたからででした。私の考えが間違ってました。クーには大きな恐怖感を与えてしまったのでしょう。それは何十年たった今でも心に残っています。

ヨーゼフとクーは山歩きに何度も行きました。旅行にもいろいろな所へ連れて行きました。我が家の旅行は犬も泊れるペンションが殆どにになりました。元々ホテルや旅館の過剰なサービスが性に合わない私ですが。その点でペンションは不便な事もありますが貧乏性の私には合ってます。ヨーゼフやクーはどこに泊っても生き生きとしていました。それと偉かったのは、他の犬も泊っていいますが、記憶している限りヨーゼフはもちろんのことクーも決して吠えることは無かったのです。
それは私たちもちょっとした自慢であり飼い主としての誇りでもありました。山では行き会う人たちに「小さいのに頑張り屋だね、偉いよ」とか「可愛いね頑張って」など声を掛けて頂きました。ヨーゼフとクーも山を歩いているときはとても嬉しそうでした。家にいるときは歳を取るににつれて、寝ていることが多くなったヨーゼフとクー。でも山の支度をしていると早く行こうとばかりに朝なのに吠えてしまいました。そんな時は二人を山に連れてきて良かったなと心から思いました。
山の歩き方もヨーゼフとクーは少し違います。ヨーゼフは時々立ち止まりその辺りの匂いを嗅いだりしてますが、クーはまっすぐ前を向いて歩いて行きます。その姿は一心不乱に目前にある障害物を避けているようです。
ボール遊びも好きでした。鼻先でボール右左に運ぶ姿はサッカーみたいでした。
2002年12月29日 ここ何処だろう

我が家では何故か呼び方も違っていました。ヨーゼフは呼び捨てで、クーは“ちゃん”を付けて呼んでいました。その時々で違うのがメイ。これはいまだに私たちにも理由が分かりません。最初から自然にそうなっていたのです。今思うと字数の違いかなと?思うようになりました。

クーの晩年は脚が不自由になり家の中ではまだしも、外では歩けなくなってしまいました。犬が歩けない。これは相当の苦痛だったと思います。そんなクーのため我が家はベットカートを購入しました。最初は歩きたがっていたクーもすぐ慣れて満更でもなさそうでした。それでも地面が芝生や草の所では歩かせもしました。
そんな時、クーはとても嬉しそうにしてました。かつてのヨーゼフがそうだったように匂いを感じ取りながら自然の香りを楽しんでいるようでした。

ヨーゼフが亡くなってからは我が家はほとんど旅行に出掛けることがなくなりました。たまに出掛けても泊りがけはなく、日帰りばかりでした。
登山からは遠ざかり、お出掛けも精々日帰り旅行に行くぐらいか、近場の公園になりました。
出掛ける時はクーには分かるのかソワソワするのは昔と変わりませんでした。
でもクーの直腸には悪性ではなかったもののポリープが出来てました。ひどい時には血が混じりました。晩年は下の世話でおかーさんは大変でした。おかーさんが留守するときはもちろん私もでしたが。結局はおむつをすることになりましたが、クーにとっては最後まで慣れることはきっとなかったでしょう。
2002年12月29日 ヨーゼフと仲良く

歩くことも厳しくなりました。家の中では足を引きずって歩いていましたが、外では無理でした。朝の散歩もペットカートオンリーになりました。そんなクーでしたが、冬の暖房機の前はクーの相変わらず指定席でした。ヨーゼフが病気で弱った時はそのクーちゃんが指定席をヨーゼフに譲り、私たちの心を和ましてくれました。ありがとうクーちゃん。クーはそんな優しい気持ちを持っていたのです。
メイやバロンが指定席を取りたくても絶対譲ることはありませんでした。「君たちはまだまだ若いよ」とでも言うように。
そんな心意気を示していたクーも歳には勝てません。徐々に体力の衰えが目立ち始めました。食欲はありましたが食べられる量は減っていきました。食べる速さもメイやバロンに敵わなくなっていました。クーと言う名の由来にもなったほど食べたのに。
悲しいことですが、私とおかーさんはクーがあんまり先がないのを感じてました。
もっともっと生きて欲しいと願いながらも。
しかしそんな願いもいつかはついえる時が来るのでした。
2020.01.22 クーの命日
そしてクーが私たちと別れる時が2019年1月22日やってきてしまいました。
クーは天国へ旅立ちました。
私たちに想い出を残して。
数々の楽しかった想い出を。
山や野原を一緒に歩いた想い出。
いろんな処に訪れて楽しかった旅の想い出。
写真や動画に面影を残して。
それらの一つひとつを私たちの心に残して。
掛かりつけの医師は「悪いところはなかったので老衰です。大往生ですよ」と言ってくれました。そうは言っても現実はクーは亡くなってしまったのです。
もう私たちのもとに帰ることはありません。

クーがその一生を終えたのはソファの上でした。
私の座った右横で横たわったまま声も出さずに静かに旅立ちました。
今は何の苦しみのなく、障害もなく、若い頃に戻った身体で飛び跳ねる事ができるでしょう。
今、天国でヨーゼフと昔みたいに本当の兄弟のように、いや本当の兄弟になっていることでしょう。それを私たちは願わずにはいられません。
仲の良かった二人だから。
私たちは一周忌を迎えたクーに再び天国に向かって言います。「クーちゃんありがとう」と。


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