2002年2月24日、娘と娘の彼(現在二人はさくらと豪琉、二児の母親・父親として奮闘中)がショートケーキを入れるような小さな箱を提げて帰ってきました。 私はそれを見て、なぜか瞬間的に仔犬が入っていると思いました。 箱を開けると、思ったとおり、小さなかわいいワンちゃんが現れました。私もおかーさんも、それこそ年甲斐もなく「ワーッ!カワイイ!」と叫んでいました。 娘が「私がお嫁に行ったら二人だけで寂しいだろう」と、一番可愛くて元気な子をペットショップから連れて来てくれたのでした。 シーズー犬のヨーゼフと私たちの出会い、そして我が家の子になった瞬間でした。 名前はおかーさんが「ヨーゼフ」と命名しました。 おかーさんはアニメの「アルプスの少女ハイジ」が好きで、そこに登場するセントバーナードのヨーゼフ(ちなみにヨハンナ・シュピリの原作には登場しませんが)から頂いたものです。 最初、外で呼ぶ時はちょっと恥ずかしかった「ヨーゼフ」という名前もすぐに慣れ、逆にヨーゼフにはピッタリと馴染みました。
ケージには最初から入れず、寝るとき一人にするのはかわいそうだと、おかーさんが強引に一緒に寝ることに決めてしまいました。 シーズーは愛玩犬に分類される犬です。 シーズーはあまり吠えません。ヨーゼフもほとんど吠えたりしません。例外は散歩に出掛ける時、私たちが外出から帰宅したときはやはり興奮してしまいます。 シーズーというと、よく毛を長くしてオシャレに飾っているシーズーを雑誌などで見ますが、ヨーゼフはショートカットで散歩が大好き、とても活発で利発な子でした。 「お座り」、「伏せ」、「待て」もすぐに出来るようになりました。 でも「お手」や芸は必要がないので教えませんでしたし、我が家でもほとんどお手を言いませんでした。そのためか、誰かが「お手」と手のひらを出すと、「しょうがないな」とでも言うように、面倒くさそうにノロノロ手を出していました。 2002年6月29日、ヨーゼフの意外な一面を知ることになりました。そのころ盛んに山歩きをしていた私たち夫婦。 この日も奥多摩の三頭山に行く予定でした。
前日、ヨーゼフを留守番させるのは可哀相だからと、一緒に連れて行くことにしました。もし歩くのが嫌そうだったらスリングに入れて歩くつもりでした。 ヨーゼフは、そんな私たちの心配も何のその、普段歩かない土の感触がいいのか、一度も休まずに軽々と山頂に立ちました。 それどころか、たまたま調子の悪かった私を気遣ってか、先に行っては私を待っていてくれたりしました。 それからのヨーゼフはこの年8回、2007年には29回も山に行き、立派な登山犬に育っていきました。どこの山でも行きあう登山者に可愛がられ、小さな身体で頑張ってるねと褒められもしました。 一部の人には、「山に犬を連れて来てはいけない」と私たちが注意された事も(4、5回)ありました。時には怒られることも2回ほどありましたが・・・ 生涯登山回数は154回、私たちが山から遠ざかった2010年以降はほとんど行ってないので実質約8年間です。 さすがに北アや南アなどには連れて行かれませんでしたが、一番高い山は奥秩父の最高峰「北奥千丈岳」標高2,601mです。 2,000m峰は13座、計17回登りました。
東京都の最高峰「雲取山」にも鴨沢から(正確には小袖乗越)日帰りで登りました。 往復10時間を超す長丁場、標高差約1,300m、途中ほんの少しだけザレ場をスリングに入っただけで歩き通しました。 登山中に降り出した雨でドロドロになりホワイトからグレーになってしまった事もありました。 利発なだけではなく、強靭な体力と根性を併せ持ったヨーゼフでした。 好奇心も旺盛で、「根子岳から」下山して来て菅平牧場の牛をじーっと眺めていたのを思い出します。あの大きいのは何なんだろう?と不思議だったのでしょう。 一度だけ危険な事もありました。御坂山塊の「釈迦ヶ岳」に行ったときです。ほとんど登山者に会わなかったのと、危険な個所もないのでノーリードで下山していました。稜線から登山口へ下り始めて暫くすると、突然ヨーゼフが登山道から外れて行ってしまい姿が見えなくなってしまいました。何度か呼んでやっと戻って来ましたが、この時はホントに心配でした。
こんな事があって、それからは絶対に先へは行かせず、私とおか―さんの間を歩かせました。 ヨーゼフと二人だけで登った「西吾妻山」と「磐梯山」は忘れられません。 西吾妻山では下山を待っていたおかーさんとクーを見るや、すごい勢いでおかーさんに駆け寄って行きました。反対にクーは私に駆け寄って来ましたが・・・ いつもみんな一緒だったので寂しかったのでしょう。 磐梯山では山頂直下の弘法清水まで下りてきたとき、突然の豪雨にあい他の登山客でいっぱいの「弘法清水小屋」に避難させてもらいました。 ヨーゼフの行儀が良いのを見て、隣りのご婦人が「私は犬が苦手だけど、この子なら全然大丈夫だよ」と言ってくれました。 山の話は尽きません。奥多摩にはよく出掛けました。中でも三頭山は計14回、年に一回は登った山でした。 高尾山と筑波山にも良く行きました。高尾山から城山までよく往復したり、相模湖まで下ったものです。 ハイキングクラブの仲間とも随分ご一緒させてもらいました。なかには迷惑と思った人もいたかもしれません。 でも、いつでもヨーゼフは可愛がってもらいました。ありがとうございました。
初めて行った三頭山をはじめ数々の山歩きでのあの生きいきした姿、表情を見るたび私は、ヨーゼフを連れてきて良かったと思い、山へ連れて行くことに喜びを感じていました。きっとヨーゼフも山歩きに喜びを感じてくれていたと思います。 旅行にも随分行きました。 最初の泊りがけの旅行は2003年12月30日〜2004年1月2日の3泊4日の妙高高原でした。 カンガルー袋に入れてスキーをしました。でもヨーゼフはおとなしく前を見ていたのですが、クーが吠えまくるのでスキーはやめて2日目からは野尻湖めぐりなど観光になってしまいました。こんな本格的な雪は、クーはもちろんヨーゼフも初めての事でした。 妙高高原をはじめ、泊りがけ旅行はヨーゼフの最後のお泊りとなった清里まで39回、泊まった宿は岩手県、福島県、栃木県、長野県など31軒になりました。
ヨーゼフは海(水)が苦手だったので、泊ったところはすべてが高原でした。 ほとんどがペンションで、一部を除いて食事中も一緒に居られるペンションに泊りました。 食事中、ヨーゼフたちは椅子に座っていいですよと言われれば、持参したクッションを敷いて椅子に、でなければ床におとなしく座るか伏せをしていました。何処に行っても「お行儀が良い子ですね」と言われたことが、私たちのささやかな自慢でした。 どこも想い出がありますが、特に想い出深いのは、やはり最初に行った妙高高原、そして裏磐梯、乗鞍高原、雫石、塩原温泉、蔵王などいっぱいあります。 妙高高原ではペンション「風見鶏」に泊り、スキーと雪上の散歩。ヨーゼフもクーも雪を不思議そうに観察していました。 それと初めてのお泊りなので、粗相してしまわないか心配したのですが杞憂に終わったことを想い出します。
裏磐梯ではペンション「フットルース」に3回泊りました。初めてのスノーシュ―を履いて雪の五色沼散策。 人が少なく気兼ねしないで雪道を歩くことができました。 桧原湖畔のレストハウスでは、他の客がいない事もあって店内に入れてくれました。ご主人が犬好きで、いろいろ話しかけてくれました。 裏磐梯スキー場の上部からイエローフォールと呼ばれる硫黄で黄色く色付いた凍った滝までスノーシューで歩きました。帰りには凍結した銅沼(あかぬま)を歩いたりもしました。 凍結した桧原湖や小野川湖ではワカサギの氷上穴釣りをしました。 ストーブのある小さな小屋の中で釣りをするのでとても暖かいです。 ヨーゼフは釣りをするわけではないのと、小屋の中はポカポカしているので、ほとんど昼寝していました。 秋に訪れた時は、「西大嶺」に登ったり、中津川渓谷で紅葉見物をしました。
磐梯には四季を通じて7,8回、旅行に出掛けました。私たちにとって大切なヨーゼフとの思い出の場所です。 乗鞍高原のペンション「陽だまり」には4回行きました。3回はO−DOGの皆さんと一緒でした。 6月の大正池から河童橋までの上高地散策や、冬の乗鞍高原でのスノーシューハイクなど楽しい想い出です。 凍結した善五郎滝は特に印象深いものがあります。 雫石のペンション「カンタービレ」にも2回行きました。田沢湖に行ったり、ペンションの庭の木にいたカブトムシとクワガタムシを捕ったりしました。岩手三山のひとつ、「姫神山」にも登りました。 塩原温泉(正確には奥塩原)の「ホテル フォレスタ」もサクラの季節と紅葉の季節にと2回行きました。 部屋が広く、各部屋にあるバルコニーも広く、ヨーゼフたちも動き回れて飽きなかったようです。 蔵王では蔵王坊平にある「しばずけ小屋」に泊りました。お釜をのぞいたり、刈田岳〜最高峰の熊野岳〜地蔵山を往復もしました。
宿では食事の時、隣りに座った高齢の方と話が盛り上がった事も想い出されます。 こんな恐ろしい思いをしたこともありました。 野沢温泉のペンションに泊まった時です。 ダイニングルームでオーナー夫妻と話していた時、ペンションのバーニーズ・マウンテン・ドッグがヌウーッと入ってきました。 その時、クーがびっくりして大慌てで吠えてしまったのです。バーニーズは勘違いしたのか、ヨーゼフに覆いかぶさりました。 ヨーゼフは恐怖で固まってしまいました。何倍も大きな、体重は10倍もある大きなバーニーズに乗っかかられたのですからね。 相手は遊ぼうよと思ってきたのでしょうが、突然なのでヨーゼフは死ぬほど恐ろしかったと思います。 どうもその時からか、興味のない犬が来ると何気なくスーッと離れ
さくらと一緒に行った白馬や那須高原、最後になったバロンと一緒だった清里、その他に泊ったところもみんな大事な楽しい想い出が、私たちの心にはギッシリ詰まっています。 ヨーゼフの日常は特に何か面白い芸をしたりするわけでもないので、毎日特に変化はありませんが、ふとした仕種で、そこにいるだけで、いつも私たちの心を癒してくれるのでした。 四季折々、天気の良い日には車や自転車でよく出掛けました。 家から近い立川市の昭和記念公園や東村山市の北山公園、八国山、狭山湖や多摩湖、武蔵村山市の野山北・六道公園には良く行きました。 お台場や湘南海岸、奥多摩川にも行きました。クーは水に入ったりして
後ろから「ヨーゼフ」と声を掛けると「ナーニ?」と、まぁ〜るい顔で振り返ります。 チョコンと首をかしげながら私たちを見つめる。そんな仕種の一つひとつがとても愛らしいのでした。 まだ若い頃はよく一緒に遊びました。 おもちゃを咥えて、遊ぼうと私たちの所へ持って来るのです。特に短いロープが好きでした。端を持って左右に振ってあげると小さな口で精いっぱい噛んで腰を落として良く綱引きをやりました。適当なとこで、自分で遊びなさいと手を離すと興味をなくします。きっと一緒に遊んで欲しかったのでしょう。 時には私たちの靴下を見つけてきて咥えて遊んでいました。 歳をとるにつれて徐々にそういう遊びも少なくなりましたが、それでも一人遊びより遊んでもらうのが好きでした。 ヨーゼフは耳掃除が大好きで、もっとやってと耳を押し付けてきます。
またこんな癖もありました。 私がまだ勤めていた頃は、家に着く少し前から玄関のドアの前でクーと仲良く並んで待っていたとおかーさんがよく言ってました。「帰るのが良く分かるね」とおかーさんと話したものです。 聞き分けの良い子で、私が会社に出勤する朝は「会社」、留守番させるときは「お留守番」と言うと、クーは足元を玄関までついて来ましたが、ヨーゼフは後を追いませんでした。 帰ってきたときは例の前脚をパタパタさせる足踏みダンスで迎えてくれます。そういう時の表情はホント嬉しそうでした。 2004年に私たちが8日間ほど旅行で留守したときは娘の家に預けていったのですが、旅行から帰って家にも寄らず迎えに行ったのですが、娘が玄関を開けた時の狂ったような喜びようはそれはすごかったです。ドアの下から顔を覗かせ早くドアを開けてよと、顔を地面に押し付けていた様子は今でも鮮明に覚えています。 ヨーゼフは気分屋さんで、ある意味気難しい子です。 食べ物にしても好き嫌いも多かったです。食べたくないときは全然食べません。だから食べ物で釣ることは出来ませんでした。 普段聞き分けがいい割には頑固な一面もあり、散歩でも自分の意に反すると頑として動きません。少々引っ張ったぐらいではダメでした。そういう時は抱っこでしのぎました。 食事もドッグフードは(うちではカリカリと呼んでました)ほとんど食べず、ドッグフードでも缶詰を主に食べていました。。
飽きるので、4種類を日替わりであげていました。それもおか―さんが手であげないとなかなか食べませんでした。口の周りが汚れるのが嫌だったようです。 私たちが外出中や家にいるときでも、一人で2階に上がり、おかーさんの部屋で寝ていたり、私の部屋でベッドの上にいたりする事がよくありました。私たちが帰宅すると、若いころは2階から急いで降りてきましたが、年を取ってからは自分では降りられず、「上にいるよ、早く降ろしてよ」と言うように階段の上でワンワンと自分の存在をアピールしていました。 そんなヨーゼフですが、大きな音は大の苦手でした。 カミナリや花火の音がすると尻尾を垂らして一目散にソファやテーブルの下へ逃げ込んでいました。挙句の果てはおかーさんの膝に避難していました。 また水が苦手なので、体を洗っているときはいつも、隙あらば浴室から脱出しようとしてました。 ヨーゼフは俊敏でジャンプ力も凄かったです。山へ行っても大きな岩に軽々と跳び乗っていました。 反面、走るのはあまり好きではなかったようです。朝夕の散歩の時にもクーは懸命に走りますが、ヨーゼフはリードがついてる為もあってかあまり走ろうとはしませんでした。 でも公園などでマテさせて、離れてから呼ぶ時などは懸命に走って来ました。
ヨーゼフは基本的に人や犬に対して友好的で、子供たちには尻尾を振って寄っていきますが、他の犬にはそんなに興味を示しませんでした。散歩で会う犬にも特に仲の良い友達もいませんでした。マイペースだったんですね。 唯一、娘の旦那さんの実家にいたキャバリアの「ラック」だけは例外で、双方の家で時々会いましたが、ひと時も離れませんでした。そんな時、クーは仲間に入れませんでした。 ラックはヨーゼフが我が家に来てからずーっと友達です。そのラックも今はいません。 ヨーゼフも今は天国でラックと再会して喜んでいることでしょう。 1月31日、医者に重大なことを宣告されてしまいました。 その日、昭和記念公園に遊びに行った帰宅後、ヨーゼフたちはシャワーで身体をきれいに洗いました。 その後、ヨーゼフが咳をし始めたのです。それもゴホッゴホッと湿ったような咳で、食欲もありません。糸くずでも口に入ったのかと、しばらく様子を見ていたのですが、呼吸も荒かったので病院に連れて行きました。
診断結果は「肺で雑音が聞こえる」とのことで、心臓の働きが悪くなっていると診断されました。 明日、心電図等をとって詳しく検査することにし、応急処置で注射を打って、薬を処方してもらい帰宅しました。 翌2月1日、病院で心電図、レントゲン、超音波による検査を行ないました。 結果は、血液の逆流現象がみられ、僧帽弁閉鎖不全症と判明しました。心臓病です。 酸素ボンベを借りて、咳で苦しそうなときはクレートの周りをビニールで覆ってカプセルのようにして、ボンベの空気をビニール管で導入し、酸素を供給するようにしました。ヨーゼフは夜もおとなしく入ってくれました。 医者には「これからは散歩も考えなければなりませんね」と言われました。とにかく無理をさせないようにとのことです。 この日からずっと薬を飲み続けることになってしまいました。 いつ急変するか分からないとも言われました。後に聞いたのですが、このときは大変危険な状態だったのでした。 これからヨーゼフの病院通いが始まりました。 紹介され大学病院(日本獣医生命科学大学)にも2回ほど診てもらいに行きました。 それからは一進一退、元気を取り戻して食欲があればホッとし、元気がなければ心配で直ぐ病院へ駆けつける。そんな日々でした。 ヨーゼフは10歳の誕生日を迎える頃から寝ている事が多くなったような気がします。 歳のせいでしょうか、それとも心臓病が少し顔を出してきていたのでしょうか。今となっては分かりません。 若い頃から夏の暑さが苦手でハァハァ言ってました。反面、寒がりでもあり、冬は猫のように丸まっていました。 心臓病と診断されてからは、さらに寒さに弱くなり、クーちゃんの指定席だった暖房機の前で寝ているようになりました。 5月6日、寒い日でした。前日も翌日も暖かい日だったのに。 ヨーゼフは朝から体調が悪そうで食欲もありませんでした。 この日は最高気温を未明に記録し、時間が経つにつれ気温が下がって行きました。 日中気温は前日よりかなり低く13℃ぐらいしかありませんでした。 5月に入ってから寝るときは毛布だけを掛けていた私が、この日はまた布団を出してとおかーさんに言ったことを思い出します。 もう暖房機は片づけてしまっていたので、エアコンの暖房だけでした。 お昼近くから咳が出はじめたので、おかーさんが外出から帰ったところで、食事もとらず急いでかかりつけの病院に行きました。 休憩時間にも関わらず開けて頂き、直ぐに診察してもらいました。 病院で酸素吸入してもらうためヨーゼフを預けて一度家に帰りました。 3時に迎えに行きましたが体調は良くなりませんでした。 酸素ボンベを借りて家に連れ帰りました。クレートを覆って入れようとしましたが、2月の時はおとなしく入ってくれたヨーゼフでしたが、今回は入るのを渋りました。 水をあげても飲みません。もちろん大好きなおやつも食べません。 9時ごろ「出して」と言うように、クレートの扉をガリガリ掻きました。 毎日飲んでいる薬には利尿剤も入ってます。おしっこをしたいのかと思い、シートに連れて行ったのですが、しないので庭に出してあげました。 ヨーゼフはいつものようにあちこち匂いを嗅いでいましたが、結局おしっこをすることはありませんでした。 再びクレートに入れようとしましたが入りたがりません。 私たちはヨーゼフの好きなようにさせました。それからはおかーさんに抱かれていました。大好きだったおかーさんに。 ヨーゼフは咳をしながらも落ち着きました。きっと一人になるのが嫌だったのでしょう。 私が2階に行ってる間、おか―さんが水を飲ませようと水を容器(注射器のような)に入れて戻ってくると、ヨーゼフは力尽きたのでしょう、布団に横たわっていました。 私たちの愛するヨーゼフの小さな生命は燃え尽きたのです。 ヨーゼフは家に帰ったので安心したのかもしれません。家族みんなと一緒で。 11時45分、ヨーゼフは普段寝るように、静かに、短かかった12年の生涯を終えました。 病気知らずで、元気いっぱいで、いつも私たちのそばにいてくれたヨーゼフはもう帰らないのです。 今さらですが、5月6日があんなに寒くなければ。あと一日耐えられれば。 残念でなりません。 小さい身体でヨーゼフは精いっぱい頑張ってくれました。毎日4種の薬を飲み、補液もし、注射を何度も打ち、酸素ボンベの力も借りました。でも・・・以前の元気な体に戻ることはありませんでした。 苦しかったでしょう。辛かったでしょう。 今は解放されました。もう我慢しなくていいんだよ、ヨーゼフ。 でも、私たちにとって少しでも救われるのは、苦しい様子を見せず、我が家で最後を迎えてくれたことです。 この夜、私たちは朝までソファに横たえたヨーゼフの傍らに居てあげました。ずっと一緒にいたかったのです。 皆さんに愛されたヨーゼフの一生。きっと幸せだったと思います。 ヨーゼフと過ごした12年。 今は感謝しかありません。
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